日常生活の中で仏教を学ぶ

日常生活の中で仏教を学ぶことについて綴っていきます

世俗と関わる菩薩行

世俗的・宗教的ということ

「世俗的」という言葉の対義語の一つは「宗教的」であるようです。

つまり、宗教的であろうと思えば、世俗を捨てないといけないという価値観が広く受け入れられているということだと思います。

ある意味で、それはその通りだと思います。世俗的な価値観に染まりきっていたら、修行や宗教といったものに目が向かなくなるのは当然です。しかし、世俗の価値観に染まるということと、世俗との関りを捨てないということは、イコールではありません。

世俗と関わりながらでも、解脱を願うことはできますし、今の自分よりも少しでも向上しようとすることはできるはずです。というより、多くの宗教者は、世俗と関わり、世俗の人々の苦しみを除こうと活動してきたはずです。

仏教にも、菩薩行という言葉があります。世の人が一人残らず悟りを得るまでは、あえて自分も悟りを得ないという誓いです。利他というのは、そういうものかも知れません。苦しむ人が傍にいる限り、自分も本当に幸せにはなれない、という感覚は、ほんの少しですが、わかるような気がします。しかし、全ての人が悟りを得るまで自分も悟りを得ることを拒否する、というのは、あまりに崇高すぎて、私には想像できない境地です。他人のために、あえて輪廻の苦しみの中にあるこの世界に留まるというのは、相当の決意でなければ、できないはずです。

 

世俗の中にある維摩尊者

維摩経の中にある維摩尊者は、俗世の中で、結婚して子供もいる商人として描かれています。しかし、俗世の中でもがいて悟りを得ようとしている人物などではなく、明らかに悟りを得て、俗世の苦しみを超越した存在です。

維摩経は世俗に意味があると言っているわけではなく、高い境地にある菩薩にとって、俗世の人々を導くことに意義があると説いているのです。そうなると、在家者のための経典というよりは、既に世俗を越えて高い境地にある人間に対しての教えということになると思います。

維摩経は、決して俗世をありのままに「肯定」するわけではありません。菩薩(ほぼ仏の境地)である維摩尊者であるからこそ、世俗と関わることに高い意味が見いだせるという点を無視してはいけないと思います。

安易な現世肯定にならないよう、私も戒めたいと思います。